【吾妻鏡】1219年1月27日の公暁のその後。
鶴岡八幡宮にて、源実朝を討ち、その首を持った公暁の逃走劇が始まりました。
時刻は、夜20時~21時前後でしょうか・・・・
どこをどの様に公暁が移動したのか?の具体的な記録はありません。
個人的な推測や妄想をも含みます。
実朝を討った場所が拝殿の入口あたり(大階段の上)であった
と仮定した場合、階段の下には多くの警備隊が控えておりますので、
心理的に考えて逆方向に移動したのではないでしょうか。
鶴岡八幡宮の北側の山を越えて、北鎌倉方面に逃走。
山を越えた先には、当時は鶴岡八幡宮寺の僧侶たちが暮らす宿坊がたくさんある
場所だったそうです。(現在は「二十五坊跡地」の石碑があるのみ)
宿坊に住む僧侶の中に仲間がいた可能性もあると思います。
積雪が60センチを超える大雪の日だったと記録されていることから
5キロ近い成人男性の頭を持って、暗闇の中、簡単に進める道ではない。
19歳の体力ある青年であれば、一気に山を駆け上がり、足早に移動も可能だったのか?
ひとりで移動していたのか?仲間がいたのか?妄想は尽きません。
しかも、20時頃かそれ以降の時間帯です。
木々の枝に阻まれた道なき道を迷いなく歩くのは少々、難しいのではないか?
と想像しています。
(月が出ていたのか?は解りませんが)薄暗い月明り程度で進める道ではない気がします。
明かりを灯し、道筋を誘導する人がいたとしても、不自然ではありません。
ただ、追手が迫ることを考えると「灯りで誘導」は得策ではないのですが
何か目印がないと、進めない様に思います。
私が想像するよりも遥かに手際よく、猛スピードで山を越えた可能性もあります。
公暁が源実朝を襲撃した時、公暁と同じような服装の悪僧が何人かいた。と書かれています。
また、公暁の門弟たちが籠り応戦した。とあります。
籠った彼らが武装した僧侶だったとはハッキリ書いてありません。
もしや?巻き込まれてしまった一般僧侶たちが、騒ぎに驚き籠っていたところを
「下手人の仲間」と思った武士たちが押し掛け
押し入ったら「ハズレ」だった・・・・なんて可能性も?
混乱した現場には起こっていたかも知れません。
少なくとも、襲撃する時点では行動を共にした仲間がいた可能性はあったと思います。
それであれば、逃走経路の途中に手引きをしてくれる仲間がいた。とも考えられます。
いずれにしても、公暁は無事に山を越え鶴岡八幡宮の外に出ることに成功しました。
公暁がどんな気持ちで、逃走したのでしょう?
正気か?狂気か?または、目的を達成できたことに歓喜の涙を流していたでしょうか・・・・
犯罪心理学のプロファイラーの方にご意見を伺いたいくらいです。
公暁は、とある人物宅へ向かいました。
吾妻鏡に初登場の人物です。
「後見備中阿闍梨(こうけんびっちゅうあじゃり)」と書かれています。
素直に解釈するのであれば「公暁の後見人である備中阿闍梨」と言う僧侶です。
ここでまた新しい疑問が生まれます。
備中(びっちゅう)とは、岡山県の一部の国です。
備中と公暁の関わりが不明です。
解釈方法は1つではないと思います。
備中から鎌倉にやってきた阿闍梨、備中出身の阿闍梨、備中で阿闍梨になった僧侶・・・・
はたまた!編纂時の写し間違い(誤字)。
鎌倉の雪ノ下に屋敷があった様ですが、どちら様だったのでしょう。
公暁は一目散に、雪をかき分け備中阿闍梨宅を目指したのでしょうか。
余計な想像ではありますが、長靴などない時代、公暁は何を履いていたのでしょうか?
草鞋(わらじ)でしょうか?カンジキの様な履物があったのでしょうか?
カンジキは縄文時代からあったそうですが、鎌倉時代にも採用されていたのかわかりません。
いずれにせよ、積雪の中、素足で雪山を登るのは寒すぎる。凍傷にならないのか?
余計な心配が絶えません。(つづく)
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