公暁が登場する吾妻鏡の記録3つ目
【吾妻鏡】1206年6月16日
頼家の若君(善哉=後の公暁)が若宮の別当より御台所(北条政子)邸へ入る。
源実朝公も御台所邸へ入る。「着袴の儀」が執り行われた。
北条義時の息子などが御膳の給仕を行う。
この時、公暁は5歳または6歳だと思われます。
「着袴の儀」を当時、どの様に読んだのか?は解りかねますが一般的には着袴=はかまぎ
または「ちゃっこ」と読んだのではないか?と想像しています。この儀式は現在の皇室にもある儀式の1つです。近代では、男女関係なく5歳になるとこの儀式を行う様です。
私たち庶民のイベントで言うならば、七五三のお祝いになります。
乳児死亡率が高い時代、子供が5歳まで成長すると言うのは大変うれしいことだったと思います。この時、善哉の母(辻殿)は、どこでどうしていたのでしょうか。この儀式には参列できたのでしょうか?記録はありません。ある記録によれば、辻殿の出家は1210年とされている。すると、この記録にある1206年には、辻殿も公暁も出家前であり、まだ会えた期間だった可能性はゼロではない。
儀式に参列はできなくとも、誰かからの報告を受けていたかも知れない。
鎌倉にいたのか?それとも故郷と思われる三河(愛知県)に帰っていた可能性もあるかも知れない。どうしていたのか?を確認するためには、タイムマシンの完成を待つしかない・・・・
さて、吾妻鏡にある「北条義時の息子ら」と言う表記に、ちょっと興味が出ます。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも義時の子供は登場しました。これは証拠がないので、個人的な推測であることを前提に。
北条義時の長男である北条泰時が生まれた年とされるのが1183年。
着袴の儀が行われた1206年は23歳。
次男である北条朝時が生まれた年とされるのが1193年。
着袴の儀が行われた1206年は13歳。
三男である北条重時が生まれた年とされるのは1198年。
着袴の儀が行われた1206年は8歳。
吾妻の鏡では給仕係は「相州の御子息等」と書いてあります。
この儀式の給仕係は複数の人が関わったことが解ります。
重時はまだ幼少ですので、年齢的に考えて、「泰時と朝時」なのか?または、
北条氏からは泰時のみで、そのほかの給仕係がいた。と言うことなのでしょうか。
御台所の邸宅で行われた儀式ですから、善哉は出家が決まっていたとは言えども
そこそこの規模でお祝いしてもらえたのではないでしょうか。
少々、余談になりますが、昔の書物を読み解く時に「誰なのか」を特定する時に、混乱することが多々あります。例えば、北条義時を指す場合「相州」「右京兆」「奥州」などの官職名で書かれていることが多いです。相州(そうしゅう)=相模守、右京兆(うけいちょう)=唐名の役職名、奥州(おうしゅう)=陸奥守と、同一人物でも表記がバラバラだったりします。
複雑な書物ルールがたくさんあった。と言うことも確かです。
善哉のことはなんと書いてあるかと言えば「故左金吾将軍の若君」と書いてあります。
故=故人、左金吾(さきんご)=唐名の役職名、若君=男児。
要約すると「亡くなった頼家の子供」と言う意味になります。
左金吾と言う名称は、頼朝の「武衛」より下。
実朝の「羽林(うりん)」は武衛より上です。
この唐名一覧もなかなか面白いと思います。
私は官位に詳しいわけではないのですが、この一覧をよく見ています。
よく、平清盛と頼朝公の父上である源義朝公が比べられることがありますが
「地位」と言う面からみれば、源氏から見た平清盛は雲の上の人です。
当時の源氏の地位は、足元にも及ばず・・・・。
例えば、豊臣秀吉の「太閤」はどのくらい偉いのか?
石田光成の「治部少輔」はどのくらい偉いのか?
大河ドラマで登場する唐名などが登場する時は、Wikipediaにお世話になっております。
善哉も元服して、武士になれたなら・・・
何等かの役職名も貰えた可能性はあります。
さすがに、将軍の息子が無冠は無いと思います。
色んなチャンスを失ってしまった善哉。のちに「公暁」と言う法名となりますが
源氏の通字である「義」も「朝」も「頼」も継ぐことができませんでした。
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