公暁の記録(吾妻鏡)- No 8-

【吾妻鏡】1217年6月20日

阿闍梨公暁が園城寺より鎌倉に戻る。

御台所(北条政子)の意向により鶴岡八幡宮別当に就任することが決まる。

この両1年の間は、公胤(こういん)の門弟として学問の為、寺に住んでいた。


前回の公暁の記録は1211年、公暁が上京した記録でした。

この6年後、公暁が再び鎌倉に戻った記録となっています。6年間、公暁がどんな環境で誰に何を学んでいたのか?は記録にありません。

個人的には本当に三井寺(園城寺)にいたのか?も、少々怪しいと思う気持ちもあります。

最後にある「寺に住んでいた」と書いてあることも気になります。

まるで、それまでは寺には住んでいなかった=三井寺(園城寺)にはいなかった。と解釈できないこともありません。なぜ?わざわざ「両1年、寺に住んでいた」と書いてあるのでしょうか。書き手のセンスなのでしょうか。

公暁は17歳になりました。現代で言えば高校生の年頃です。

この記録では、公暁の呼び名は「阿闍梨公暁(あじゃりくぎょう/あじゃりこうぎょう)」となりました。阿闍梨(あじゃり)と言うのは、解りやすく言うと僧侶の「位」の様なものです。詳細を言えば、阿闍梨の中にも呼び名が複数あり、複数の阿闍梨の位があります。

もっと、平たく言えば、阿闍梨=先生、または師範。とも言えます。

「阿闍梨」は、ある種の仏法を学び精通した知識を持った方に与えられる「称号」の1つです。

ここで「公胤の門弟として」と言う表記が確認できます。

公胤は公暁の師匠であったことも、ここで理解できます。

近年、❝公暁❞の読み方が「こうぎょう」とされた裏付けの1つは師匠の名が「公(こう)胤(いん)」だったこともあったと想像します。

「公=く」ではなく「公=こう」と修正されました。教科書で「くぎょう」と習った私には、なかなか「こうぎょう」とすんなり言えないのですが、本当に「こうぎょう」であるならば、ずっと名前を間違えられていたのですから、公暁も苦笑いしているかも知れません。

公暁の師匠である公胤についても少し補足してみます。

公胤は、後白河法皇、後鳥羽上皇とも繋がり、鎌倉側では、北条政子、源実朝らからも信頼を得た僧侶でした。鎌倉にも何度も下向していたそうです。

北条政子の視点で言うならば、「信頼ある僧侶(公胤)に孫(公暁)を預けた」と言うことなのでしょう。

また一説には、公胤は村上源氏出身だったとか。

余談にはなりますが、多くの方が源氏の家紋と言えば「笹りんどう」の家紋を想像されるとお思いますが、笹りんどうの家紋は村上源氏の方が使われた記録が散見されるそうです。

源頼朝はもちろん!頼朝の兄弟や子供たちが笹りんどうの家紋を使った記録は見たことがありません。少なくとも、源頼朝が使用したのは「白旗」であり、「八幡大菩薩」や「南無八幡大菩薩」と書いてあったかも?知れません。

想像ではありますが、鎌倉市の市章が、笹りんどうなので、笹りんどう=鎌倉、鎌倉=源氏の様なイメージ連鎖が根付いてしまったのでしょうか。

さて、いよいよ!鎌倉へ復帰する公暁。鎌倉へ向かう道中、どんな思いだったのでしょう?

鎌倉に帰ることが嬉しかったでしょうか?

祖母(北条政子)や叔父(源実朝)乳父(三浦義村)らに会えることを楽しみと思ったでしょうか?

それとも・・・・・