公暁の記録(吾妻鏡)- No 9-

【吾妻鏡】1217年10月11日

阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮寺別当に就任した後、初めて、神拝(参拝)された。

また、宿願(しゅくがん)がある為、これ以降一千日間、八幡宮寺に参籠(さんろう)するとのこと。

前回の記録では同年6月20日に鶴岡八幡宮寺の別当に就任した。と記録されています。

それから約4カ月。10月になり初めての参拝・・・・。

当時の神職や僧侶の決まりは解らないが、ずいぶんと間が空いている様に感じます。

当時は「神託」の様なお告げなどで行事などを決めることも珍しくありませんが

10月11日に参拝に至ったまでの経緯については記録が残されておりません。

公暁が何を思って八幡宮寺に籠ろうとしたのでしょうか?

私は古文書や古い記録(もちろん、吾妻鏡も含めて)気を付けていることがあります。

これは、吾妻鏡に限ったことではありませんが、吾妻鏡本文(吾妻鏡の写し本文)の最後に「云々(うんぬん)」と書かれる場合は、書いた本人が見たり聞いたりしたことではありません。

「~だったらしい」「~と言っていた」の様な第三者の見聞録的な書き方です。

今回取り上げている1217年10月11日の記録には、下記の様に書かれています。

「今日以後一千日、宮寺に參籠令め給う可きと云々」

これは、記録されたご本人ではなく、誰かから聞いたか、または誰かから報告されたか。

そもそも、誰が書いているのか?が不明なので、誰が聞いたのか?の憶測もできない話ですが

現代的に平たく言うのであれば「公暁は宿願があるから鶴岡八幡宮寺に籠る。と言っていた様です」と言うことです。

この「云々」と言う表記1つ1つに疑問を持っていたら古文書は読めません。「云々」の連続です。しかしながら、やはり思入れを持ってしまうと、この「云々」には疑問を持ってしまいます。

吾妻鏡の記録が100%「史実」とは思えませんが、この時、公暁には、すでに何等かの計画があり、その計画は始まっていた可能性はあります。

歴史書には様々な誤記もあります。人の手で「写す」わけですから、誤字脱字は十分にあり得ます。タイムマシンが完成した時には、吾妻鏡の「原紙」となったと思われる、文官たちの日記を、写メで持ち帰って読んでみたいです。

「絶対に!!口外しませんので、見せてください!!」とお願いできる日は来るのでしょうか。

お願いできる日が訪れた時は、切腹最中を持参したいと思います。