【吾妻鏡】1219年1月27日 (後編)
名だたるお偉い様らが、鎌倉入りし源実朝の右大臣拝賀式に参列しました。
珍しい名前もあるもので「伊達右衛門尉爲家」なる人名もあります。
後の伊達政宗を輩出する伊達家は、鎌倉ともご縁があったのですね。
拝賀式は18:00頃からの開始だったと言います。
日中にやらないの?と思いますが、他の行事でも夜に行っていることはあった様です。
公暁のこの日の行動は明らかになっておりません。
しかし、この日を<源実朝の襲撃日>と定めていたのでしょう。
公暁は、何時頃からその時を待って潜んでいたのか?は解りません。
少々、夢を壊してしまう話になるかも?知れませんが・・・・
公暁が銀杏の樹に隠れていた。と言う伝承は、おそらくは後付けで広まった逸話だと思いま
す。個人的な見解を含みますが、公暁が実朝の首を持って逃走したことを考慮すると
拝殿の出入り口付近、現在の大階段の上にあった回廊(通路)だったのでは?と想像しま
す。特に、境内の各鳥居周辺(鶴岡八幡宮の入り口)には警護隊がいますので
そこを突破して逃走は、公暁にとっては不利なコースになります。
2010年に倒壊した銀杏が樹齢1000年とする場合、1219年の銀杏は若木だったと想像します。
人が隠れられる様な大きさでは無かったのでは?と想像します。
※あくまで個人的な見解であり、証拠や裏付けはありません。
近年では、公暁の単独犯説が主流になりました。黒幕推論は複数ありますが・・・・
公暁と同じ装いの悪僧が数人いた。と書かれております。仲間がいた様です。
後に応戦している警護部隊がいることを考えると、数人のグループで実朝襲撃を実行したとも
考えられます。
拝賀式が終わり、源実朝らは、拝殿から退出を始めたその時!!
潜んでいた公暁らが飛び出し、実朝を狙います。
(所説ありますが)北条義時と間違えられて斬られたと言う源仲章は、偶発的に襲撃されたの
か?計画的だったのか?解りません。
将軍の命を狙っているのですから、プラス1名の公卿の犠牲など許容範囲のうちだったの
ではないか?と思います。それが、偶然にも源仲章だったのではないでしょうか。
相手が丸腰で武器を持っていないことは、公暁は事前に知っていたことでしょう。
驚く公卿らを横目に、公暁は実朝めがけて突進したのでしょうか?
雪深い夜、左程明るい照明もない中、公暁はついに、源実朝の首を落とします。
一説には公暁は「親の仇を獲ったぞ!」叫んだ・・・・とありますが
そんな余裕あったでしょうか・・・・
そもそもですが、源実朝は親の仇ですか?と言うところも、私個人的に、論点がずれている気
がしてなりません。この話が元になり「公暁は親の仇討ちで源実朝を襲撃した」と言われて
おりますが、果たしてそうなのでしょうか?
吾妻鏡に詳細はありませんが、おそらく公暁は実朝の首を落とし、首を抱えて
裏山から逃走したのではないでしょうか。
暗闇から飛び出して襲撃したとするならば、源実朝は、相手が公暁であることすら
認識できなかった可能性もあるでしょう。
近くに公暁の顔を知っている人がいたのでしょうか・・・・見つけた人は驚いたでしょう!
騒ぎを聞きつけてやってきた鳥居近辺の警護隊が現場に来た時には
公暁の姿は見当たらなかったそうです。公卿らの悲鳴を聞いて駆け付けたのでしょうか?
大階段を雪の中、ダッシュで上がるのはきつかったのではないでしょうか
(余計な想像ですが)
もし、公暁に協力した悪僧がいたのであれば・・・・
誰だったのでしょうか。
鶴岡八幡宮内の僧侶でしょうか?
それとも、鎌倉の外から招いて集めた仲間だったのでしょうか?
園城寺の修行仲間でしょうか?
解らないことはたくさんありますが、公暁は最大の目的である「実朝の首」を無事に入手して
鶴岡八幡宮を去ったことは、史実だと思っています。
将軍の首を持って逃走する公暁の気持ちは、如何なるものだったのか・・・・
正気だったのか?狂気に満ちて我を忘れていたのでしょうか?
想像の域は出ませんが、私個人的な想像は、意外と冷静だったのではないかな?と思えます。
「よしよし、計画通りだ」と満足していた気もします。
あまりリアルに想像したくない事ではありますが・・・・
人の頭の重さは4~6キログラム程度と言われています。
尚且つ、落としたばかりの生首です
かなり出血があったと想像します。もう少し重かったかも知れません。
どうやって運んだのでしょうか・・・(抱えて?担いで??)
首を持って意気揚々と裏山を駆け上がる公暁の後ろ姿を、
見送る人はいたのでしょうか。
※少々、生々しい表現となりましたことご容赦頂ければ幸いです。
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