大河ドラマだけではなく、時代劇や映画、または書籍などで人物に対する
イメージがあると思います。多くは演じた俳優さんのイメージではないでしょうか。
鎌倉殿の13人では、寛一郎さんが素敵な公暁を演じてくださり、
公暁の名をご存じない方に知って頂く機会の1つになったのではないかと思います。
日本史の教科書には登場しますが、知名度は高くありません。
公暁と言えば「鶴岡八幡宮で将軍を斬った男」であり、
これは変えられない史実であり、公暁の枕詞とも言えると思います。
では、公暁はどんな人だったと思いますか?
と言う質問に答えられる方はいらっしゃるでしょうか。
正解はありませんので、想像と妄想の世界のお話になります。
どんな人物像だったのか?を知る記録は残っておりません。
背丈や顔立ちを知ることのできる記録もありません。
母に似ていたのか?父に似ていたのか?
または祖父や祖母ににていたのか・・・・
修禅寺に保管されている公暁(善哉)の「写経」。
公暁が書いたもので唯一残されているものかも知れません。
子供の文字です。細く可愛い文字に、公暁のどんな思いが込められていたのでしょうか。
この残された公暁(善哉)の写経と出会えたことで「公暁は確かに生きていたのだな」と
実感することができました。
確かに公暁は存在し、命がけで生きたこと、19年の生涯を駆け抜けた人であり
(空想ではない)血の通った人であったと、感じたられました。
探しても、探しても、何も出てこない公暁の痕跡。
私の公暁は、修禅寺がスタートだったと思います。
もしかしたら?公暁の父上である源頼家が、私の背中を押してくれたのかも知れません。
源頼家が亡くなった後に出家した息子が「公暁」と言う名になったことを
源頼家は知りません。
源頼家の中では息子の名は「善哉(ぜんざい)」なのです。
私はその大切なご子息の名をお借りし「善哉庵(ぜんざいあん)」と言う名で
私たちは活動しています。
年内に源頼家の墓所(供養塔)へお参りさせて頂く予定があります。
大切なご子息の名を拝借していること、その名を大切にしていることなどを
善哉の父上にご報告したいと思っております。
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