公暁の記録(吾妻鏡)- No 15-

【吾妻鏡】1219年1月27日

無事に(?)鶴岡八幡宮寺(当時は、八幡宮+お寺でした)から脱出した公暁は

備中阿闍梨の家へ向かいました。

備中阿闍梨の家は雪ノ下の北谷にある屋敷だと吾妻鏡に書いてあります。

現在の鎌倉には地名として「雪ノ下(ゆきのした)」はありますが「北谷」はありません。

鎌倉には「谷」を「やつ」と読むケースが多くあります。

「きたのやつ」と呼ばれていたのでしょうか。

おそらくは、漢字の通り、鎌倉の北側にあったのだと想像しています。

現在の地名と鎌倉時代の地名の範囲は異なると思いますが、鶴岡八幡宮の住所が雪ノ下なので

公暁が目指した備中阿闍梨宅は、そんなに遠くではないと思われます。

公暁が捕らえられたと言われる伝承地の1つの場所が、鶴岡八幡宮と建長寺(北鎌倉)の間に

あります。北谷と言われた場所は、ここに近かったのかも知れません。

備中阿闍梨宅に到着したのが何時ころだったのか?解りませんが、時間軸として21時~22

時、またはそれ以降の遅い時間だったと思われます。

備中阿闍梨は、この日公暁が訪ねてくることを事前に知っていたのか?

知らなかったのか?解りませんが、伝承によれば、備中阿闍梨は、公暁に食事を提供したそう

です。現在で言うならば夜食になるでしょうか。

もし、公暁の訪問を事前に知っており、食事を用意して待っていたというのであれば

備中阿闍梨は、公暁の仲間となります。

もし、事前には知らずに対応していた。と言うことであれば、巻き込まれたのでしょう。

1日2食の生活が主だった鎌倉時代・・・・夜食を提供するという行為を、どう見るか?

この話は比較的有名なエピソードの1つかも知れません。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では備中阿闍梨は登場しませんでした。

変わりに、公暁は三浦義村の家で食事していました。

吾妻鏡によれば、公暁は食事中も実朝の首を手放さなかった。と言います。

・・・・生首を持ったまま食事をするというのは、少々、過激な図ではありますが

この話が本当ならば、公暁の首に対する執着心はかなりのものだと想像します。

本日も無駄な妄想話ではありますが、備中阿闍梨が用意した食事とは、どんなものだったの

でしょうか?非常に気になります。

備中阿闍梨が、事前に公暁の計画を知っており、公暁が訪ねてくることを前提に

事前に食事を用意していた。とするならば、公暁の好物などを用意していたのでしょうか。

さて、公暁の好物とは・・・・。妄想は尽きません。(つづく)