公暁の記録【吾妻鏡】-No20-

北条泰時に「公暁の首かどうか?わからない」と言われた首のその後の話は

一切、吾妻鏡には登場していません。

どのくらいのスピードで、源実朝が討たれたこと、公暁が討ったこと。が

鎌倉や京都で周知されたのか?解りませんが

大パニックになったのではないか?と想像しています。

「鶴岡八幡宮寺の別当が、将軍を討った。」セインセーショナルなニュースだったことは

想像できます。現代で言えば、新聞一面のTOP記事にもなることでしょう。

簡単に纏めて言えば「源実朝を討った公暁は、三浦義村の家臣である長尾定景らに討たれ

首実検されたが、北条泰時によりその首が公暁であると断定できなかった」と言う記録です。

大事件にも関わらず、どこかぼんやりした情報の様に感じるのは私だけでしょうか。


後日談としての記録ですが、もう1つ腑に落ちない記録があります。

1219年2月1日の吾妻鏡の記録です。

公暁が源実朝を討ったのが1月27日の出来事とされているので4日後の記録になります。

鶴岡八幡宮寺の僧侶らは、公暁に加担したものはいなかったか?と事情聴取をされた記録です。

この日、北条義時の元に「公暁に加担した悪僧はすべて討ち取っており、そのほかの僧侶の加担はなかった」と報告された。とあります。


公暁に加担したとされる方々の名前が一切登場しません。

討取られた悪僧とは、誰だったのでしょうか?何人いたのでしょうか?

強いて言えば、公暁が駆け込み食事を提供したと言われる備中阿闍梨の邸宅が没収されたことが書か

れています。

備中阿闍梨が何者なのか?全く解りませんが、公暁に加担したと判断されたのでしょう。

そして、謎が謎を呼ぶ記録。


1219年2月6日 

公暁のお使いとして伊勢神宮へ出向いていた白河左衛門尉なる人物が

鎌倉に戻る途中、公暁が討たれたことを知り、三河国(愛知県岡崎市)にて自害した。そうです。

さて・・・白河左衛門尉とは、どちら様でしょうか?なぜ?鎌倉に戻らなかったのでしょうか?

戻れない理由があったのでしょうか?自害の理由は?1つも明らかになっておりません。


少ない記録の中で紐解くと、この人物は、どうやら波多野氏(神奈川県秦野市を拠点としていた一

族)の生まれだった記録がある様です。

白河と言うのは、おそらく京都の白河だと思われますが、年齢は解りません。

もしかしたら?白河左衛門尉は、公暁の乳兄弟だったのではないか?と個人的に想像してみました。

もし、乳兄弟であれば、公暁の乳母の中に波多野氏の女性がいたことになります。

源頼家と波多野氏・・・・ちょっと繋がりが弱い気が致します・・・・違うか・・・

公暁と波多野氏に接点が????それも、想像の域を出ることがありません。

白河左衛門尉と公暁の関係が明かされる日がくることを願うばかりです。


順番が前後いたします。1219年1月29日

長尾定景らと同行していたとされる武常晴(たけつねはる)と大津兵部なる者らが

鶴岡八幡宮寺の裏山の雪の中から、源実朝の首を見つけました。

この首の発見者2人は、40キロの道のりを移動し、鎌倉から秦野へ移動。

波多野忠綱を頼り、波多野氏の領地内で源実朝の首を葬った。と言われています。

彼らは、三浦義村の家臣です。

どう考えても、おかしな行動です。なぜ?源実朝の首を三浦義村に届けないのでしょうか?

なぜ?波多野忠綱を頼ったのでしょうか?

誰の指示だったのでしょうか?

武常晴と大津兵部は、その場で出家し、源実朝の首を供養した・・・と伝わります。

公暁でも波多野氏、源実朝でも波多野氏。


吾妻鏡の編纂者は、一体、何を私たちに残そうとしたでしょうか。

そして、吾妻鏡の記述は、どこまで史実なのでしょうか。

謎が謎を呼び、更なる謎に包まれる・・・。


ところで!!!

公暁の首はどうしたのですか??吾妻鏡の編纂者さん・・・・(おしまい)