公暁の記録【吾妻鏡】-No21-<おまけ>

公暁の一件から然程、日も経たない1219年2月15日の吾妻鏡。

午後2時前後のことである。

北条政子の寝所に小鳥が舞い込んだ。(これは凶兆らしい)

同日、午後4時頃、駿河国(静岡県)から飛脚が鎌倉に到着する。

報告によれば阿野時元(阿野全成の四男)が2/11に多くの兵を集め阿野荘にて(阿野全成の所領で、自宅は阿野時元が継いでいる)城郭を作っている。

東国支配を企てている。と・・・・


1219年2月19日

北条政子の命令により、北条義時が御家人らの軍勢を駿河国へ派遣する。

目的は阿野時元らの追討である。


1219年2月22日

駿河国へ到着した軍勢は阿野一族らに攻撃を開始する。

阿野時元及び仲間全員が追討された。


1219年2月23日

午後6時前後、駿河国からの飛脚が鎌倉に到着する。

阿野時元が自害した旨が報告される。


阿野時元は、父である阿野全成が討たれた後、

鎌倉を出され、駿河国(自宅)で蟄居となっていた。

実質的な阿野氏の失脚とも言える。

源実朝が亡くなり、将軍がいなくなったからと言って反乱を起こすでしょうか?

源実朝、公暁、阿野時元。この三人は血縁関係が非常に近い。

わずか2~3週間の間に、源氏の血縁は完全に閉ざされることになる。

鎌倉将軍家の血縁者は鎌倉から排除された。と言っても過言ではない。


あまりにも手際が良すぎる。計画的な行動に思える。

本当に源実朝を襲撃したのは、公暁だったのか?とすら疑いたくなる。

阿野時元まで巻き込み、徹底的な鎌倉将軍家の血縁者排除に見える。

あくまで、吾妻鏡が「正しい歴史」とするのであれば・・・・である。


これは、歴史的な裏付けもなく、根拠もなく

河内源氏贔屓である個人的な妄想であり、それ以上でもそれ以下でもない。


鎌倉史を否定するわけでもない。

北条政子を恨むわけでもない。

しかし、驚くことなかれ!!

阿野氏の血縁は完全に絶えたわけではない。

公家に嫁いだ、阿野全成の娘の血縁は、長く続くことになる。

そして、現在も末裔さんがいらっしゃるとのこと。


武家阿野氏は衰退となるが、公家阿野氏として約100年後に歴史の表舞台に現れる。

女性の名前は、阿野簾子(あのれんし/あのかどこ)。

なんと!!後醍醐天皇の側室となり、やり手の女性として登場する。

阿野簾子の産んだ子は、後村上天皇となる。

阿野全成の末裔は、天皇家に繋がる。

不運な運命を辿った阿野親子らの無念も、少しは晴らされたでしょうか・・・