公暁はの幼少名は、私たちの店舗名にも拝借している「善哉(ぜんざい)」です。
1200年に生まれてから1211年の出家までの約11年間は「善哉」だったのでしょう。
公暁の人生の中では「公暁」であった時間よりも「善哉」であった時間の方が長かったと思います。
吾妻鏡ベースのブログでも触れましたが「善哉」は「よきこと」と読みます。
非常におめでたい名前であり、祝福されていたことが伺えます。
若いパパである頼家が名付けたのでしょうか。源頼朝が亡くなった翌年の誕生ですから
きっと、男児誕生にお祝いムードが高まったのではないでしょうか。
どこまでハッキリした検証か?は、解りかねますが一説によれば
出家した時には、父の源頼家の一文字を取り「頼暁」となり
後に、公胤の弟子となったことで「公暁」となった。とされています。
個人的には・・・ずっと頼暁でも良かった気がします。
(「頼」を継承と言う意味で。)
私が悔しがっても何も始まりませんが、本来であれば、元服して武士の名を授かったことでしょう。
私は歴史研究者でもなく、評論家でもないので、論ずることは好みません。
200%・・・いや1000%、個人妄想でのお話であることを先に申し上げます。
大河ドラマでの描かれ方としても、一般的な伝承にしても
公暁は「将軍になりたかった」と言うのは非常に疑問に思います。
なぜならば、公暁には異母兄がおります。
源実朝が源頼家のストック(=万一の場合に備えた二軍)であった様に、
善哉は、異母兄である一幡(母は比企氏の娘)のストックであったのではないかと思います。
歴史IFではありますが、比企氏のチカラが継続されたのならば
3代目の鎌倉将軍は、一幡であった可能性は高いと考えています。
公暁は、善哉だった頃に幸せな記憶や思い出が多かったのではないでしょうか。
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