吾妻鏡に登場する公暁の記録2つ目。
初めての登場は、鶴岡八幡宮に馬を奉納したと言うおめでたいお話でしたが、2回目の登場から、悲しい未来へと続く予感が・・・・。
【吾妻鏡】
1205年12月2日 公暁は、御台所(北条政子=公暁にとっては父方の祖母)のはからいで鶴岡八幡宮別当である尊暁(そんぎょう)の門弟となる。5人の侍が同行し、酉の刻に尊暁の坊に渡る。
※酉の刻=午後6時頃。
公暁は(推測で)6歳。この時、公暁はどんな思いだったのか?出家の理由や状況などは、誰かから説明を受けていたのでしょうか。もし、説明されたとして、公暁は受入、納得したのでしょうか?
いつの段階で公暁の出家が決定したのか?は吾妻鏡からは読み取れませんが、頼家が亡くなった翌年出家したことになります。頼家が亡くなり約1年半後。
誰が、どの様にして公暁の身の振り方を決めたのか?解りませんが、おそらくは、公暁の他の異母弟達の処遇も同時期に決まったのでしょうか・・・・
頼家の子供のうち男児3人全員が出家、女児は、北条政子に保護されたのではないかと思います。出家により命は救われていますが、公暁の未来を思うと、この時、他に選択肢は無かったのだろうか?と考えてしまうのでは、私だけでしょうか。
想像してみて下さい。現代で言えば6歳の子は小学校1年生です。親元を離れ、大人たちが決めた僧侶の元で出家。「仕方ないよね・・・」と、私の中では思えない歴史の1つです。
【鶴岡八幡宮について】
当時は「鶴岡八幡宮寺(つるがおかはちまんぐうじ)」です。神仏混合で、八幡宮の中にお寺がありました。鶴岡八幡宮の北側に「二十五坊(にじゅうごぼう)」と呼ばれた史跡が残っております。〇〇院と言う名の25坊あったとか。別当の住まいにもなっていたそうです。公暁も別当就任中は、ここで暮らしていたのでしょうか。
鶴岡八幡宮の歴史を紐解くと、別当(べっとう)と呼ばれる役職の方が登場します。別当とは、現在で言うならば「総取締役長官」と言う感じでしょうか。後に、公暁は4代目の別当に就任することになります。とても偉い役職です。
初代別当に就任したのは園城寺(三井寺)僧侶であった円暁(えんぎょう)。1182年に源頼朝により別当を任命されたと記録されています。円暁は、家系図上、源頼朝の従兄にあたります。別当職は、円暁から弟の尊暁へ、尊暁から弟子の定暁(じょうぎょう/ていぎょう)へ、そして4代目に公暁へ。別当職と言うのは園城寺関係の僧侶が就任していた歴史が解ります。
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