歴史雑学【2】河内源氏のご先祖様たち

皆様は、人物名を調べる時にどんなツールで調べているのでしょうか?

私は、必ず家系図を確認しています。ご先祖が誰か?誰と繋がっているのか?

親、兄弟などの家系図を見ることで、対象人物の立ち位置を確認しています。

公暁は、河内源氏と言う家系の1人です。「河内源氏」と言っても家系図はとても広く

有名人で言えば、足利尊氏、新田義貞、今川義元、武田信玄も河内源氏です。

表記方法に明確なルールがあるのか?ないのか?は、解りませんが

「清和源氏〇〇流河内源氏」と言う表記を多く目にする気がします。

〇〇には人名が入ります。〇〇が直系のご先祖様の名前にあたります。

これも統一されている訳ではありませんので、書籍によっても違いますし、ネットで検索しても、様々な表記があります。個人的にはどれも正解で間違いではないと思います。

例えば、源頼朝は何者か?と家系図を確認した場合

「清和源氏頼信流河内源氏」と書かれることもあれば「清和源氏義家流河内源氏」もあり

「清和源氏為義流河内源氏」「清和源氏義朝流河内源氏」とされる表記もあります。

源頼信、源義家、源為義、源義朝、これらの方々は全員、源頼朝のご先祖様です。

(※源為義については直系か?否か?異説はありますが、ここでは直系とします。)

どこで区切るか?の違いだと思います。

源頼朝につながる順番で紹介すると、頼朝公は7代目の棟梁(とうりょう=家督を継いだ人)です。

初代 源頼信、2代目 源頼義、3代目 源義家、4代目 源忠義、5代目 源為義、6代目 源義朝、7代目 源頼朝、8代目 源頼家、9代目 源実朝 以上。

NHK大河ドラマ「どうする家康」の話の中にも登場しましたが、3代目の源義家は、苦労人でもありましたが英雄でもあり、「家康」の「家」は源義家からとった一字だと紹介されました。源氏を深く愛する私としては「勝手に使わないで欲しい」と思うところもあります。(家康ファンの方には申し訳ございませんが。)

同じ一族の中では通字と呼ばれる字があり、河内源氏では「義」「家」「頼」「朝」などが使われていることが解ります。

家督を継ぐ人=長男。と言うのは、ずっと後の時代に固定化した話で

平安時代~鎌倉時代には、次男や三男などが家督を継ぐケースもあります。

例えば、4代目の源忠義、7代目の源頼朝はともに三男です。

おまけ知識にすぎませんが、4代目の源忠義は、平清盛の父である平忠盛の烏帽子親です。

忠盛の「忠」は源忠義から取った一字です。

このころは平家ではなく「平氏」ですが、源氏ともそこそこ良好な関係だった時代だったのですね。

この時代には母の家柄によっても嫡男か?庶子か?の境目になります。

源頼朝の場合、兄2人が亡くなっているので順番としては、順位が高いですが

何より、頼朝の母(由良御前)は、熱田神宮の宮司家系の方とのこと。

兄らが存命中に、家督は頼朝に継がせることが決まっていた様です。

母の家柄で子供の未来が変わると言う武家文化は、現代の私たちには少々、理解が難しい部分もあると思います。

いずれにしても「血縁者を断絶させないため」の努力は大変だと思います。

その苦労も、源実朝で直系男子が断絶してしまいますが、河内源氏の血縁が途絶えたわけではありません。例えば、家督は継いでおりませんが、源頼朝の異弟である阿野全成。

阿野全成の娘は公家に嫁ぎ、阿野家は存続。なんと!鎌倉時代末期に登場する後醍醐天皇の妾となり、男児を生み、天皇の母になりました。

阿野全成が、これを知ったら、どんなに、どんなに喜ぶことか!!と思います。

一見、消えてしまった家に見えても、女系で続く家柄もあります。

残念ながら、女性の名前や消息などの記録は非常に少ないため、断言できない部分もありますが、少なくとも頼朝の妹、阿野全成の娘は、血縁が繋がり、ついには天皇家にまで入ります。

そして、現代にも末裔さんがいらっしゃることに、深い感謝と長い歴史を感じています。