公暁の記録(吾妻鏡)- No 4-

吾妻鏡の公暁の記録4つ目。

【吾妻鏡】1206年10月20日

頼家の子(善哉)は、尼御台(北条政子)の指示により源実朝の猶子(ゆうし)となる。

初めて御所に入る。乳母夫である三浦義村が贈り物を献上した。


「養子」と「猶子(ゆうし)」は非常に似ていますが、少々違いがあります。

一概には言えないのですが、養子であれば、後継者候補と思えますが

猶子と言うのは「後見人」と理解するのがよいのではないかと思います。

そもそも論となりますが、善哉の出家後に、実朝の猶子としているあたりを見ると、この時点で善哉(後の公暁)は、将軍後継者リストから外されていた。とも見えます。

善哉の出家、実朝の猶子となることは、前もってすべて決められていた可能性は高い。

この時点で、実朝は14歳、善哉は6歳。実朝に公暁の後見人となることは難しい年齢。

実際には、御台所(北条政子)が善哉の面倒を見るための形式上の縁組だったのでしょう。

御台所(北条政子)の心情がいかなるものだったか?は、吾妻鏡から読み取ることは出来ません。頼家を廃したことへの後悔があったのか?善哉をなぜ?実朝の猶子としたのか?

御台所(北条政子)は、この時、どんな未来を思い描いていたのか?・・・・

どうしたら?善哉は幸せになることができたのか?

どうしたら?未来の悲劇を防ぐことはできたのか?

実朝自身は、どの様に感じていたのか?甥っ子を猶子とすることに疑問は無かったのか?

善哉(公暁)は、叔父が養父となることに疑問はなかったのか?

人の心情は、なかなか明らかになることは難しい。

当人らに聞くこと以外、解決はできない疑問。これもタイムマシンの完成待ち。

善哉はこの日初めて御所に入った。と書いてあります。

すぐ近くで暮していても、御所は気軽には来られる場所ではないのですね(当たり前ですが)


気になることがもう1つ。

乳父である三浦義村が贈り物を献上した。とありますが、何を贈ったのか?の記載がありません。馬?食べ物?・・・・非常に気になるとことです。

吾妻鏡は、頼家公やその家族らの記録は、塩対応な気がしてなりません。

吾妻鏡そのものが編纂されているので、誰かの文官の記録には、詳細な記録があったのでしょうか。割愛されてしまったのでしょうか。

小さな出来事として済まされてしまったのでしょうか。

どちらにしても、吾妻鏡が編纂者は、頼家にも公暁にも会ったことのない方々。

いつの日か、新しい記録が見つかり歴史が明らかになる日が来ることを祈るばかりです。