公暁の記録(吾妻鏡)- No 5-

【吾妻鏡】1210年07月08日

源頼家公の正室である辻殿(善哉の母)が出家した。

戒師は退耕行勇であった。


公暁の母が出家した日の記録があります。個人的には「これだけですか・・・」と思う程、簡素な文面に思えます。吾妻鏡にはオリジナルが存在しない。複数人の文官らの記録を編纂しているのが吾妻鏡の特徴とも言えます。この記録は誰が残した記録だったのか?解りません。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、公暁の母の名は「つつじ」とされていました。史実としては「辻」とされています。名前の由来は不明ですが、本名では無さそうです。

さて、この辻殿ですが、吾妻鏡では正室とされていますが、吾妻鏡以外の記録では「妾」とされています。

辻殿が正室か?妾か?と言う論争より、辻殿が公暁の母である。と言う記録が私は大切だと感じています。

源頼家公が亡くなったのが1204年、辻殿が出家したのが1210年、公暁はその翌年の1211年に出家しました。この空白とも言える6~7年間。個人的には、とても気になります。当時の出家ルールはわかりませんが・・・・

解っていると言えば、辻殿も公暁も「出家すること」は以前より決まっていたのかと想像しますが、なぜ?このタイミングだったのか?と言う点には、非常に興味があります。

あまりクローズアップされないと思いますので、

ここに少しだけ辻殿の出身である足助氏の紹介を。

辻殿の父は、足助(あすけ)氏と呼ばれる一族の方。

足助氏の本拠地は、三河国(愛知県東部)でした。

辻殿の母は源為朝の娘とされています。源為朝の別名は鎮西八郎為朝。武士の中の武士!として、伝説の武士と言っても良いと思います。

源為朝は、源頼朝の叔父、源頼家の大叔父になります。少々遠い血縁関係になりますが、源頼家と辻殿は、親戚です。(※辻殿の母が本当に源為朝の娘であれば・・・です)

教科書などでは見かける事の少ない足助氏ですが、遡れば、頼朝公の父や、源義家の時代からお付き合いがある家系だったそうです。

尾張国や三河国(愛知県)、美濃国(岐阜県)は、鎌倉時代は東西の境でした。

土地柄、鎌倉側に属する家と、京都側(朝廷側)に属する家が混在していたのだと想像します。

辻殿が足助氏の女性だとすると、辻殿の故郷は三河国(愛知県)である可能性が高いです。 足助氏が、どうやって?頼家と繋がったのか? なぜ?頼家は足助氏の女性を嫁にしたのか?など、謎はたくさんあります。まさか!ある日突然、娘を鎌倉に連れていき「娘を将軍の嫁にしてください」と直談判したりしないでしょう。誰かが仲持ちしたのでしょう・・・・

足助氏側から見れば、娘が将軍の子供を産むのですから、さぞ!鼻高々だったのではないでしょうか。その後、足助氏は、御家人として鎌倉幕府に従っていた様ですが、承久の乱の時は、一族の多くが朝廷側についていた。と言うのも面白い話だと思います。

やはり、源頼家を廃した北条氏に不満や恨みがあったのでしょうか・・・

しかし、一族は滅びず、室町時代にも活躍されている様です。

愛知県豊田市足助町に、足助一族の菩提寺があるそうです。いつかお参りに伺い

辻殿を源頼家に嫁がせてくれたお礼をお伝えしたいと思っています。