公暁の記録(吾妻鏡)- No 7-

【吾妻鏡】1211年9月22日

禅師公(公暁)受戒のため、定暁を伴い上京する。

将軍家は5人の従者を同行させた。これは、公暁が源実朝の猶子としてのこと。


今回は、少し難しい言葉が登場する記録です。

「受戒(じゅかい)」これは正式な僧侶としての儀式の1つと言えます。

原文通りに言えば「登壇受戒(とうだんじゅかい)」の上洛と書いてあります。

難しい書き方ですが「登壇」も「受戒」もほぼ同じことを指します。

厳密言えば異なるのかもしれませんが。

次に「猶子(ゆうし)」。これは書かれている時代によってケースバイケースの事例もあるので一概には説明が難しい言葉ですが一般的な意味合いとしては「継承権を持たない養子」または「後見人」と理解しています。

養子は「継承権あり」、猶子は「継承権なし」と言えます。

公暁は源実朝の猶子です。言い換えれば、実朝の跡取りではない息子。とも解釈できます。

ただし、源実朝と公暁は年齢が近く8歳差です。これを仮にも親子と言うのは、少々違和感がありますので、公暁に関しては、父親を亡くし、母も出家の身となっている為

身の上の保証人、または後見人と、私は解釈しております。

公暁は源実朝の猶子であり、特別な身分なので、鎌倉から5人の従者が同行した。と言うことです。5人が誰であったか?の記載はありません。

この日の記録には、公暁のことを「禅師公」と書いています。

前回までは金吾将軍の若君(善哉公)と書いてありました。

吾妻鏡は複数人の記録を「編纂(へんさん)」している記録です。

この日の記録は、前回の記録とは別の方の記録が採用されているのか?

それとも、正式な僧侶となる儀式に準じて、表記名を変えたのか?

そもそも誰が書いた記録なのか?も解らないのですが・・・・

公暁が鎌倉を出て、上京したまでの記録を紹介しておりますが、この後、公暁がどうしていたのか?については吾妻鏡には書かれておりません。

吾妻鏡に限られたことではないのですが、昔の記録はオリジナルではなく「写し」が殆どです。写しを書く際に、年号や日付の間違いは、珍しいことではないのですが

他の記録には「公暁が三井寺(園城寺)で暮し始めたのは1216年夏」とされています。1221年に上京した。と言う記録が正しいとするならば、三井寺に入るまで約5年の空白の期間があった。と言うことになります。

もし、空白の5年間があるとするならば、どこで誰と暮らしていたのか?非常に気になります。この次に吾妻鏡に公暁が登場するのは1217年、公暁が鎌倉に戻った話になります。

これが正しいとするのであれば、三井寺に滞在期間は1年程度と言うことになります。

記録は誤記だったのでしょうか・・・・。