源頼朝と言えば、河内源氏の嫡男であることは多くの方が御存じかと思います。
源頼朝を担ぎ、鎌倉へ誘導して将軍にした御家人の皆様の顔ぶれをみても
圧倒的に、源氏ではない方の数が多いです。(源頼朝の異母兄弟は除く)
また、その多くの方々は、源頼朝の父上である源義朝の部下だった方が多いです。
坂東は、もともと、秩父氏や鎌倉氏などの勢力が強い地域です。
源義朝が長生きされていたならば、事情は変わったかも?知れませんが、源義朝の亡き後は
平家の世になり、源氏の力は、みるみる衰えていったことでしょう。
大河ドラマでもピックアップされる話ではありませんが、上総介広常(大河ドラマでは佐藤浩一さんが演じられました)の本名は平広常です。名前の通り、源氏ではありません。
桓武平氏と言われる一族です。上総介広常は、源義朝からも非常に信頼のある家臣として扱われていました。源義朝は、若いころに上総国に住んでいたことがあり「上総の御曹司」と言われるほど、上総国とは良い関係であったことが伺えます。
1159年平治の乱では、源頼朝の異母兄である源義平にも従って、戦ったことが記録されています。かなり厳しい敗戦の中、うまく逃げ切り、京から上総国へ逃げ延びた様です。
上総国に戻ってからは、平家の世となりますので名目上は、平家に従うこととなりました。
しかし、上総介の家は、源氏だ!平氏だ!と言う様な状態ではなく
自分の家の家督騒動が長く続いており、大変苦労されたと思います。
上総介広常は、上総家の8男だったそうです。(異説あります)
異母兄との骨肉の争いが、長かったと思われます。
プラスして、平家の世に不満も多かったのでしょう。
なぜ?源頼朝に仕えたのか?で言えば、理由は1つではないと思いますが
もともと、源氏の家臣であり、元上司(源義朝)の嫡男が旗揚げしたら協力しない理由もない気がします。そのくらい、上総介広常と源義朝の絆は深かったと想像します。
個人的に面白いな!と感じたのは、上総介広常の娘の嫁ぎ先です。
上総介広常の娘は、平時家に嫁いでいます。
当時は考え方が現代とは逆ですから、平時家が上総介広常の娘婿になりました。
平時家は、「平家にあらずんば人にあらず」と言う迷言(?)で有名になりました平忠時の次男です。平忠時と言えば!平清盛の断室である平時子の弟です。
しかし、この後、不運の後に大逆転の方でもあります。
平時家は、特に悪事に加担した形跡もないのですが、継母と非常に仲が悪かったらしく
継母が、あれこれと平清盛にチクり(あることないこと・・・)、平清盛はそのチクりを信じてしまった様で、平時家は、よく分からない罪で、上総国へ流罪となりました。
しかし、これが転機となります。
上総介広常の元に、流人としてやっていた若者は、非常に可愛がられ、娘婿になりました。
上総介広常が源頼朝に仕えるのですから、当然!娘婿の平時家も源頼朝に仕えます。
平時家は、源頼朝にも非常に可愛がられ、信頼されていたそうです。
上総介広常は、鎌倉で殺されてしまいますが、広常亡き後も、平時家は鎌倉で暮したそうです。また、1185年以降だと思いますが、平家滅亡後は、名を平時家から平信時と改名したそうです。
上総介広常は大変残念な結果となりましたが、娘婿も、しっかり源頼朝を支えてくれた様です。記録によりますと1193年に亡くなられた様です。
鎌倉で墓所や供養塔の話は聞いたことがありませんが、どこかにあったのかも知れません。
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