公暁の記録(吾妻鏡)- No 10-

【吾妻鏡】1218年12月5日

鶴岡八幡宮別当は、八幡宮寺に参籠したまま退出しない。複数の祈祷を行っている。

まだ髪を剃髪せず怪しまれている。白河左衛門尉義典を伊勢太神官に奉弊(ほうへい)の為に

出発させた。そのほかにも諸社に複数の使いを出していると、本日御所で発表されたらしい。


前回の公暁の記録(吾妻鏡)-No9-にて、公暁は宿願の為に鶴岡八幡宮寺に籠った記録を紹介

しました。これが1217年10月。今回の記録は1218年12月です。

約1年2カ月。公暁はずっと鶴岡八幡宮寺に籠っていたことになります。

公暁は「一千日八幡宮寺に参籠する」と宣言していることから長期間の参籠は計画的だったと

想像できます。1年2カ月が宣言通りの期間なのか?それよりも長いのか?解りません

が、文字を信じて「千日」と言うならば、怪しまれる様な期間ではないと思いますので

この時点で、想定されていた期間よりオーバーしていた。と推測するのが良いのかも知れませ

ん。公暁は本当に祈祷していたのか?何をしていたのか?は、吾妻鏡からは解りません。

公暁の思う「宿願」とは何だったのでしょうか。

想像するしかない話ではありますが、この時、既に何等かの計画をしていたのか?

その時を待っていたのか?それとも・・・・

公暁の行く末を知る私たちは「この時から復讐劇の計画は始まっていたのか」と

想像していまいますが、多かれ、少なかれ、彼は大きな博打とも言うべき行いをするわけです

から、多くの悩みや迷いがあったのではないか。と私は思います。

自問自答を繰り返していたのかも?知れません。


この記録には、新しい登場人物の名があります。「白河左衛門尉義典」

現代風に訳すのであれば、白河の官職は左衛門尉(さえもんのじょう)名は義典(よしのり)。

白河氏とは、どこの方なのだろう?と調べてみれば、相模国淘綾(ゆるぎ)郡波多野荘の方で

波多野氏に関係する方だった様です。

淘綾(ゆるぎ)郡と言う名前は私も初めて知りました。

地図を見る限り、現在の神奈川県中郡が、淘綾(ゆるぎ)郡であった様です。

白河義典のご両親を確認してみると、父は波多野氏、母は源頼朝公の秘書とも言うべき文官で

あった藤原俊兼(ふじわらのとしかね)の娘。とあります。

なかなかの血統筋の方であったと推測できます。

合わせて、伊勢神宮とのかかわりもある家柄の方であったことから、公暁に使者として抜擢

されたのかも知れません。

もしかしたら、義典さんは、白河氏→波多野氏の養子だったの可能性も?

この白河義典に関しては、面白い仮説もあるので、別途、ご紹介できればと思います。

尚、白河義典の出自についてはWikipediaを参照しております。(※所説あります)