※1219年1月27日の公暁の命をかけたの日の前後の吾妻鏡の記述の紹介です。
公暁の直接の記録ではありませんが、クライマックスに向けて触れておきたいと思います。
不運、不吉な出来事が連続します。信じるか信じないかは皆様次第です。
1219年1月の記述
【吾妻鏡】1219年1月7日
大江広元の屋敷焼失。火災で40件以上が焼失の被害があった。
【吾妻鏡】1219年1月15日
北条時房室(足立遠元の娘)宅他、10軒が焼失
【吾妻鏡】1219年1月25日
源頼茂が鶴岡八幡宮で参籠。前夜、お経をあげている時一瞬のうたた寝。その時に夢で、1羽のハトが現れた。子供が1人おり、少し経った頃、子供は杖(棒)を取り出し、ハトを叩き殺してしまいました。それから子供は自分の狩衣の裾を叩いてきました。おかしな夢を見て目覚めると八幡宮の庭でハトが死んでいました。人々は不審に思った。頼茂の話が話した件を、すぐに安部泰貞と宣賢に占わせた結果「不吉である」と上申した。
鎌倉での火災の記録は多く、複数回の火災に見舞われている家もあった様です。
上記の記録は割愛している記録もあります。
1月23日の記述には「雪が降り始めた」とあります。
気温が低く、乾燥した陽気で火災が起こりやすい環境だったのかも知れません。
火災の原因に関しては触れられていません。
火災、火災、不吉な夢の話・・・・
この次のお話が、1月27日、公暁が源実朝を襲撃する話になります。
火災の後には、実朝公のの正室(坊門信子)の兄が京都から鎌倉に到着した話もありますが
不吉な夢の次が公暁の話・・・となると、あまりによく出来すぎている様に感じるのは、私だけでしょうか。
公暁の命がけの決行日まであと2日。
公暁は、どこで何を思っていたのでしょうか。
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