【吾妻鏡】
備中阿闍梨の屋敷にて、食事をしたと言う公暁ですが
どのくらいの時間留まっていたのか?記録にありません。
この後の行動を考慮すると、備中阿闍梨の屋敷には備中阿闍梨だけではなく
他にも公暁の仲間が一緒だったのかも知れないと思うエピソードがあります。
これも吾妻鏡ベースの話になりますが、私個人的な妄想を含む仮説であると
ご理解いただければと思います。
食事が終わった公暁は、ある人物に使者を出しています。
使者に指名されたのは、弥源太兵衛尉(やげんたひょうえのじょう)なる方です。
吾妻鏡あるある!ですが・・・・どちら様でしょうか・・・。弥源太様。
ぽっと出と言いますか、初めてお目にかかるお名前です。
この名前が正しいとするのであれば「源太(げんた)」と言えば
源氏の長男「太郎」さんなのですが「弥源太」と言う名前から推測するのであれば
弥源太の父が源太だった可能性もありそうです。
すると・・・もしかして??源頼朝公の長兄である源義平(別名:悪源太義平)の
血縁者と言う可能性も??ゼロではないです。
「兵衛尉(ひょうえのじょう)」と言うのは官職名になりますが
そこそこの官職です。高い身分の家柄の方だったのかも知れません。
これも仮説の域を出ませんが、私個人的な予想は、公暁の乳兄弟の可能性です。
公暁は、将軍家の子です。乳母は必ずと言ってよい程、複数人いたはずです。
三浦義村が乳母夫として有名ですが、三浦義村1人のはずがありません。
名前こそ残っていませんが、第二、第三、第四の乳母や乳母夫がいても不思議ではありません。
こんな時でも、公暁に寄り添う人物であれば「親しかった人」の1人ではないでしょうか。
そんな弥源太兵衛尉が向かった先は?と言えば・・・三浦義村の屋敷です。
この話が基になり、源実朝暗殺の黒幕は三浦義村説が生まれることになります。
吾妻鏡によりますと公暁は乳母夫である三浦義村に手紙を書いております。
「将軍の首(実朝の首)を獲った自分が次の将軍である。早く、迎えに来い」と。
参考までに、将軍の乳母や乳母夫がどのくらいの権限があるかと言えば
総理大臣並・・・いや、それよりも多くの権限があるかも知れません。
自由にならないことはないのではないか?と言うくらいの最高地位です。
むしろ、将軍よりも乳母の権力は(ある意味)大きい気もします。
この時代、産みの母より育ての母(乳母)が強いのは、何となく想像ができるのではないでしょうか
三浦義村は、総理大臣の座につくか?どうか?を迫られたわけです。
弥源太兵衛尉は、無事に三浦の屋敷にたどり着き、公暁のお手紙を三浦義村に届けた様ですが
雪をかき分けて山道を歩いたのでしょうか。暗い深夜の山道、怖いし、暗いし、寒かったでしょう。
弥源太兵衛尉殿、お疲れ様でした。
(つづく)
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