公暁の記録【吾妻鏡】-No17-

弥源太兵衛尉なる人物が何者であったか?は吾妻鏡からは探れず

歴史研究者の皆様によりその正体が明かされる日が来ることを祈るばかりですが

吾妻鏡によれば、三浦義村の屋敷へ公暁の手紙を届けた人物として書かれています。

この時、公暁は備中阿闍梨と言われる人物の屋敷に滞在中だったと思われます。

そこから三浦義村の屋敷へ使者を出したのかな?と想像しています。

これも想像の域を出ない話にはなりますが、公暁の滞在先と三浦義村の屋敷は

左程、遠い距離ではなかったと思いますが、大雪で天候も悪く、弥源太兵衛尉が三浦義村の屋敷

に行くのは容易ではなかったと想像しています。

頑張った!弥源太兵衛尉ですが、登場は1度きりです。

彼の本名も1度も登場していません。もしかしたら、三浦義村以外に協力してくれそうな人達の家を

周り、支援を訴えていたかも知れません。記録にはありませんが・・・・

三浦義村に手紙を渡し、公暁の元へ帰ったのか?

それとも、その場で三浦義村の指示で命を落としているのか・・・・

個人的には、公暁の元へ無事に帰っていてほしいと願うばかりです。

公暁の手紙には、こう書かれていたと言います。

「将軍の座は空席となった。自分こそが東国の棟梁である。すぐに討議を進め、手続きをする様に」

源実朝の首を持っている公暁の強気な姿勢が表れている様に思えます。

吾妻鏡によれば、三浦義村は暫く、言葉が出ない程に、泣いたそうです。

乳母夫としての役目を果たし、公暁を護るべきか?

鎌倉の御家人としての役目を果たすべきか?

三浦義村にも深い葛藤があったのではないのでしょうか。

三浦義村は「まず、我が邸宅へお越しください。迎えの兵を出します」と返事をしたそうです。

三浦義村が使者にこう伝えた。と記録されています。

この使者とは、先に登場した弥源太兵衛尉のことなのか?

三浦氏の家臣のことなのか?

どちらとも理解できる記載です。

弥源太兵衛尉をその場で討ち取り、三浦氏の家臣を使者とした。可能性もある気がします。

そもそも、弥源太兵衛尉と三浦義村に面識があったのか?無かったのか?も謎の1つでは

ないでしょうか。

三浦義村は、この後、別の使者を北条義時に向けて出しました。

公暁に対して、どの様に対処したらよいのか?判断を仰いだと思われます。

三浦義村は、乳母夫としてではなく、御家人としての対応を選択したと思われます。