【歴史雑学】IF(もしも)あの時・・・

記録の少ない鎌倉での出来事には、非常にいろいろな想像や妄想が膨らみます。

歴史に「IF(もしも)」はない。

などとよく耳にしますが、私には「IF(もしも)」しかありません。

どれが真実なのか?を見極める資料もありません。

精々、頑張って、吾妻鏡と愚管抄を読み比べるくらいでしょう。

当事者の記録は残っていない為、見聞録に頼るしかないのですが

これが真実である。と言う証拠も何1つありません。

これを良いことに、妄想放題!仮説立て放題になります。

せっかくなので、私の仮説の仮説のご紹介です。※証拠たるものは1つもありません。

公暁がどの段階で、源頼家(父)が討たれたこと、また討たれた背景を知ったのか?は解りません

しかし、少なくとも鎌倉に帰ってきた時は、すでに公暁の企ては完成していたのではないか?

お堂に籠り、髪を伸ばし、周囲から怪しまれても生活を改善せず

自らの企てに対して、自問自答していた時期もあったのではないでしょうか。

19歳の青年は立派な大人です。現代の19歳とは異なると思います。

ハッキリとした自我がある年齢です。

世間では黒幕説なる様々な仮説があります。

有名なところでは、北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇・・・でしょうか。

どれにも根拠らしきことはありますが、私は単独犯説を推しています。

公暁は、源実朝を憎んでいたわけではないと思います。

父を廃して次の将軍の座に就いたことには違いありませんが、それは実朝自身が望んだことではなく

大人たちがそうした結果の1つだと思います。

公暁が企んだ最大の目的は「自分が将軍になること」と理解されがちですが

そもそも将軍になるには京(朝廷)から許可が必要になります。

公暁がひとりで、どう頑張ってもこれは難しいということは余程の軽率な考えでない限り

公暁にも理解できたと思います。

では、なぜ?源実朝の命を狙ったのか?

父を将軍の座から廃し、母を悲しませたオトナ達への復讐だったのではないか?と思います。

本来、自分や自分の兄弟たちが歩むべき人生を奪われたことへの復讐。

具体的に書いてしまうとファンの方には申し訳ない気もしますが

公暁の立場で考えた場合、比企氏VS北条氏の政権争いに巻き込まれた父は

勝者の北条氏によりその座を奪われ、源頼家のスペアである源実朝を将軍とした。

(実際には、いろんな利権が絡んでいたと思いますので単純な話ではないと思います)

それであれば、北条氏が一番大切にしているものを壊してしまいたい!

1番大切なもの=鎌倉の象徴である鎌倉殿=源実朝

こんな風に考えていたのではないか、と想像しています。

自分にも将軍になれるチャンスがあったのに、それを奪われた!

と思っていたか?否か?は何とも言えません。

吾妻鏡が正しいとするのであれば、源頼家の嫡男(後継者)は比企氏の娘との子である一幡(源頼家の長男)だった可能性があります。

公暁は一幡のスペアとも考えられます。

仮にそうだったとしても、公暁が出家する様なことは無かったでしょう。

普通の武家と同じ様に、ある程度の年齢になれば元服して武士となっていたと思います。

一幡の良きサポーターになっていたかも?知れません。

または、一幡との政権争いになっていた可能性も・・・・ないとは言えません。

いずれにしても、12歳で遠い三井寺(園城寺=滋賀県)へ行くこともなく

鎌倉またはその周辺で生涯過ごしていた可能性は高いのではないでしょうか。

公暁は物心がついてから、何1つ

自分の思う通りにはできない人生を強いられてしまいます。

鎌倉を出たのは12歳。母とも引き離され、乳母とも引き離され、孤独感があったと思います。

鎌倉時代だけではなく、いつの時代も、そして現代も同じですが

子供に罪はないです。

親が政治的失脚なので、子供も同様・・・そう言う時代ですから

そこは現代とは異なります。全く同じではありません。

しかし、同じ国に生まれた1人の人間の人生が自分とは関係のない勢力の影響で

人生そのものが狂ってしまった。と言うことは事実だと思いますし

悲観せざるえません。

IF(もしも)あの時・・・・と考えてしまうのは、私だけではないと思います。

どこかに伝承でもよいので、公暁の子孫が存在していたら良いな・・・と言うのもささやかな

私の歴史IFでもあります。