公暁の記録【吾妻鏡】-No19-

長尾定景らに捕らわれた公暁は、チカラいっぱい抵抗したのでしょうか。

長尾定景らの仲間には西国でチカラ自慢で有名だったという雑賀次郎なる武士がいたそうですから

公暁にとっては不利な状況だったことも考えられます。

吾妻鏡によれば、雑賀次郎が公暁を組み伏せて、長尾定景が公暁の首を斬った。とあります。

あっと言う間の出来事だったのか?

それとも、時間を要しての小競り合いがあったのでしょうか?

この時の様子については、残念ながら吾妻鏡には書かれておりません。

公暁の首を獲った長尾定景らは、北条義時の屋敷に向かったとされています。

三浦義村の屋敷ではなく、北条義時の屋敷なのですね・・・

もし、三浦義村の屋敷前で公暁が討たれたと仮定するのであれば

北条義時の屋敷は遠い距離ではありません。

公暁の首を北条義時宅に届けた時の会話が、吾妻鏡には残されています。

どうやら、北条義時と息子である北条泰時が一緒にいた様です。

玄関先で、公暁の首を確認したことが記録されています。

北条義時の側近である安東 忠家が、行灯で首を照らし、首を確認したそうです。

大河ドラマには登場しなかった方ですが、安東 忠家は和田合戦の時に首実検に立ち会っています。

首実験係として、北条義時に同行していたのかも知れません。

吾妻鏡に残された会話の記録は、北条義時ではなく、北条泰時の言葉です。

「自分は、公暁の顔をあまりよく知らないので、この首が公暁かどうか?わからない」

現代語訳すると、この様な言葉です。

北条義時の言葉は記録がありません。三浦義村の言葉もありません。長尾定景の言葉もありません。

なぜ?わざわざ北条泰時の言葉を吾妻鏡に残したのでしょうか。

ここで私たちの持つ先入観が働いてしまいます。

北条氏と公暁は血縁関係が非常に近いです。

血縁関係の近い親戚だから、顔が解らないわけがない。と思いませんか?

この記録の肝の部分ではないかと個人的には思うのですが

私は北条泰時と公暁は親しくもなく、北条泰時が公暁の顔があまり解らない。

と言うのも不思議ではない様に思いました。

これは矢代仁先生の著書「公暁」にも同様の意見が書かれていて

読んだ時に、非常に驚きました。

「遠い親戚」の様な関係で、顔を合わせる機会は多くなかったのではないでしょうか。

ですが、北条義時は違います。

北条義時の言葉は残されていないのです。

吾妻鏡は北条氏によって編纂につぐ編纂を重ねた書物です。

オリジナルがありませんので、北条義時の言葉があったのか?なかったのか?

残念ながら、知る術がありません。

ここでまた、私の妄想が膨らみます。・・・その首は、本当に公暁だったのでしょうか。

北条義時の言葉はない。北条泰時は、それは公暁か?どうか?解らない。と言う。

だったら・・・誰の首だったのでしょうか。

ここで2つの可能性を考えてしまいます。

1つは、首は間違いなく公暁であり、単純に北条泰時は「顔をよく知らない」と言った。

1つは、首は明らかに公暁ではない。と言うことを匂わせる発言。

私個人的にこの場面が非常に悔しいと思うことがあります。

首は間違いなく公暁だったとすれば・・・の前提ですが、公暁は自分の命と引き換えに源実朝を

討ったわけですが、こんなに大きな事件を起こした主犯であるにも関わらず

自分を認識して貰えないわけです。将軍の子であり、いわば御曹司となるはずの運命だった

19歳の青年の運命は、想定外の方向へ進み、あげく最期の首実験ですら、

存在が認識されなかったとするのであれば

公暁はとても悔しく思うのではないでしょうか。

吾妻鏡に「確かに公暁の首に間違いない」とされているのであれば

公暁も少し救われた気持ちになったのではないかな・・・と

公暁贔屓の私は思わずにはいられません。