公暁の記録【吾妻鏡】-No18-

【吾妻鏡】公暁の記録

三浦義村の屋敷と北条義時の屋敷は左程、遠くない距離だったと想像します。

三浦義村の使者は、北条義時に面会を求めたのか?手紙を渡したのか?


しかし、この話は個人的に矛盾を感じるところがあります。

北条義時は急に具合が悪くなり、源仲章と交代して自宅に戻った・・・とありますが

別の記録には、北条義時は中門に控えていた。と書かれています。

私はこちらの話の方がリアルな印象があります。

もし、私の想像通りだったとするならば、公暁が源実朝を襲撃したことを北条義時が知らないはずが

ありません。現場は大騒ぎになっていると思います。北条義時は帰宅しているでしょうか?


個人的な疑念はさて置き・・・・

北条義時は「公暁を討伐する様に」と言う命令を出しました。

なぜ?生け捕りではなく「殺しても良い」と言う命令を下したのか・・・

源実朝暗殺の黒幕は、北条義時だった説は、この様な記録が基になっていると思われます。

三浦義村の使者はすぐに屋敷に急いだことでしょう。使者の方、雪道の中、お疲れ様です。

三浦氏の家臣はたくさんいます。

そんな中、公暁追討命令に白羽の矢が立ったと言われる武士がいます。

長尾定景(ながおさだかげ)です。

この時、長尾定景の年齢は解りませんが「老骨に鞭打って」と書かれているので

かなり高齢だった可能性があります。

長尾定景は、何度か役目を固辞したが、三浦義村がしつこいので役目を受けることになった・・・とか。

長尾定景は5人の先鋭部隊で、公暁討伐隊が出発することになりました。

詳しいメンバー全員は書かれていませんが、想像すると・・・

長尾定景と息子2名、雑賀次郎(西国の方でチカラ自慢だったそうです)、武常晴、大津兵部だった

かも知れません。

※この武常晴(たけつねはる)と大津兵部(おおつひょうぶ(?))は後にキーマンとして登場します。

吾妻鏡によりますと・・・・

長尾定景らは、公暁討伐で出発しますが、三浦義村屋敷の北側で公暁に遭遇したことになっています

これが本当なら、屋敷を出て、すぐに公暁と遭遇したのかも知れません。

公暁は、周囲の武士を斬りちらかして、三浦義村の屋敷の塀を越えようとしていたところ

長尾定景らに捕らえられます。

雑賀次郎が取り押さえ、長尾定景が首を落とした・・・・と。

(公暁が捕らえられたとされる場所には所説あります。)

吾妻鏡には、公暁は武芸に優れた若者なので簡単には討ち取れない。と書いてありますが

公暁は武闘派の僧侶だったのでしょうか?僧兵の様な??

余計な想像ではありますが、一応、出家されていますので僧侶としての立場だったと思いますが

夜な夜な、刀で素振りでもして体を鍛えていたのか?

または父親(源頼家)譲りで、体育会系な面があったのでしょうか?

その割には、あっさり討ち取られてしまっている様な・・・・

吾妻鏡は、どこまでリアルなのか?疑念は増加致します。

(つづく)