建保七年1月27日、雪の鶴岡八幡宮で実朝を暗殺したのち、公暁は実朝の首を持ったまま後見人・備中阿闍梨の元で食事をとり、その後三浦義村の屋敷を目指します。その後、山中にて三浦の差し向けた追手・長尾定景の一隊に討ち取られ、公暁の首は北条泰時によって検分されたと『吾妻鏡』に記録されています。その後の遺体の行方は記録には無く、遺骨の所在もわかりません。
大泉寺には公暁のご位牌が伝わっており、供養塔はそのご縁で建立されます。そんな中、建立にあたり施工をご担当くださる興国石材の藤島さんから、「遺骨は無いまでも、せめて所縁の地の土など代わりに埋納できないか」とご提案いただきました。
それが実現したらとても素敵!とは思ったものの、どこの土にするのか、勝手に掘ってくるわけにもいかないし…とチームで相談を重ねました。
そしてさまざまな方のご協力を得て、公暁にゆかりの深い地の土をお譲りいただくことが叶いました。5月4日、御住職が御法要を行なってくださり、広告石材の藤島さんと、当会の藤岡がいただいた土を埋納いたしました。
ただこの土の由緒については供養塔の由緒書きへのみの掲載許可となっておりますので、ぜひ皆様、供養塔が完成した暁には、併設されます由緒書きをご一読くださいませ。
たくさんの絆でできた公暁供養塔。
また一つ、大切なご縁がつながりました。
0コメント