【吾妻鏡】
1211年9月15日(晴れ)
源頼家公の若君(善哉)が定暁僧都の部屋で出家。法名は公暁。
メモみたいな記録ですが、吾妻鏡には公暁が出家した日の記録が残されています。
善哉の誕生の記録はないが、出家した日の記録は残っている。
吾妻鏡の編纂者は、何を残し、何を切り捨てたのだろう?少々、不思議な気持ちになります。
誰が一緒だったのか?も書かれていません。
当日のお天気情報「晴れ」よりは、もっと違う情報を残して欲しかったですが・・・
前年(1210年)7月に公暁の母(辻殿)が出家された話を前回のブログに書きました。
公暁の出家には母上は同行しなかったのでしょうか?
乳母も乳父も同行しなかったのでしょうか?
善哉は12歳です。現代の12歳よりも少し大人の扱いかも知れませんが
本来であれば、出家ではなく・・・元服しても良い年ごろです。
善哉はどんな心境だったのでしょうか?
幼いとは言え、自分の立場は理解できる年齢だったと思います。
自分を出家の身に陥れた大人たちを恨んではいなかったでしょうか?
「なぜ?自分は出家しなくてはいけないのか」と不満は無かったのでしょうか?
この記録を境に、善哉は、名前が公暁へと変わりました。
❝定暁僧都❞ 「じょうぎょうそうず」と読みます。
定暁は、鶴岡八幡宮の3代目別当でした。公暁は、この6年後、
1217年に定暁から別当を引継ぎ4代目の別当に就任します。
少々話は外れますが、3代目別当の定暁は、記録によると平時忠の一族だったそうです。
平時忠と言えば、平清盛の断室である平時子の弟です。
平清盛と近い間柄であった方でも、当初より源頼朝に仕えていた方もいらっしゃいます。
定暁が平氏出身であっても不思議ではありませんが、
鶴岡八幡宮の初代別当、2代目別当は、源頼朝の従兄が務めていました。
勝手な想像ですが、定暁は内外の評価が高く、鎌倉で信用のある方だったのではないかと思います。
公暁は大変良いお師匠様に仕えていたのでしょう。
公暁が良い弟子であったか?否か?は、なんとも言えないところですが・・・・
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