2023.07.30 04:31歴史雑学【2】河内源氏のご先祖様たち皆様は、人物名を調べる時にどんなツールで調べているのでしょうか?私は、必ず家系図を確認しています。ご先祖が誰か?誰と繋がっているのか?親、兄弟などの家系図を見ることで、対象人物の立ち位置を確認しています。公暁は、河内源氏と言う家系の1人です。「河内源氏」と言っても家系図はとても広く有名人で言えば、足利尊氏、新田義貞、今川義元、武田信玄も河内源氏です。表記方法に明確なルールがあるのか?ないのか?は、解りませんが「清和源氏〇〇流河内源氏」と言う表記を多く目にする気がします。〇〇には人名が入ります。〇〇が直系のご先祖様の名前にあたります。これも統一されている訳ではありませんので、書籍によっても違いますし、ネットで検索しても、様々な表記があります。個人的にはど...
2023.07.30 02:41公暁の記録(吾妻鏡)- No 3-公暁が登場する吾妻鏡の記録3つ目【吾妻鏡】1206年6月16日頼家の若君(善哉=後の公暁)が若宮の別当より御台所(北条政子)邸へ入る。源実朝公も御台所邸へ入る。「着袴の儀」が執り行われた。北条義時の息子などが御膳の給仕を行う。この時、公暁は5歳または6歳だと思われます。「着袴の儀」を当時、どの様に読んだのか?は解りかねますが一般的には着袴=はかまぎまたは「ちゃっこ」と読んだのではないか?と想像しています。この儀式は現在の皇室にもある儀式の1つです。近代では、男女関係なく5歳になるとこの儀式を行う様です。私たち庶民のイベントで言うならば、七五三のお祝いになります。乳児死亡率が高い時代、子供が5歳まで成長すると言うのは大変うれしいことだったと思います。この...
2023.07.23 05:21歴史雑学【1】八幡宮の歴史鎌倉のシンボルである鶴岡八幡宮は、多くの方が認識されている通り!初代征夷大将軍であり、初代鎌倉殿である源頼朝によって作られた八幡宮ですが、造られた当時は「鶴岡八幡宮寺」神仏混合でした。八幡宮の中にお寺がありました。1180年に鎌倉入りした源頼朝が、着手した一大プロジェクトが鶴岡八幡宮造営です。鶴岡八幡宮の前身は、源頼朝が鎌倉に来るよりも100年以上前に、ご先祖様である源頼義(みなもとのよりよし)が、京都にある石清水八幡宮の八幡神を鎌倉に勧請(かんじょう)したのがはじまり。勧請(かんじょう)とは、神様の分身をお引越しさせること。全国の八幡宮の本宮は、大分県宇佐市にある宇佐神宮です。宇佐神宮の八幡神の分身を石清水八幡宮にお祀りし、石清水八幡宮の八幡神の分身...
2023.07.23 02:01公暁の記録(吾妻鏡)- No 2-吾妻鏡に登場する公暁の記録2つ目。初めての登場は、鶴岡八幡宮に馬を奉納したと言うおめでたいお話でしたが、2回目の登場から、悲しい未来へと続く予感が・・・・。【吾妻鏡】1205年12月2日 公暁は、御台所(北条政子=公暁にとっては父方の祖母)のはからいで鶴岡八幡宮別当である尊暁(そんぎょう)の門弟となる。5人の侍が同行し、酉の刻に尊暁の坊に渡る。※酉の刻=午後6時頃。公暁は(推測で)6歳。この時、公暁はどんな思いだったのか?出家の理由や状況などは、誰かから説明を受けていたのでしょうか。もし、説明されたとして、公暁は受入、納得したのでしょうか?いつの段階で公暁の出家が決定したのか?は吾妻鏡からは読み取れませんが、頼家が亡くなった翌年出家したことになります。...
2023.07.17 01:57公暁の記録(吾妻鏡)- No 1-鎌倉時代の記録と言えば、最も有名なものは「吾妻鏡」ではないでしょうか。武家政権における最古の記録とも言える貴重な歴史的資料です。吾妻鏡には初代将軍である源頼朝が伊豆で挙兵する場面から6代将軍宗尊親王が帰京し将軍を辞する場面までが記録されている。ただし、途中、欠落している部分があり、更にオリジナル資料は存在していない。吾妻鏡は通説では1300年頃(鎌倉時代末期)の書物とされている。即ち、この記録は公暁らが生きていた時代より約90年後頃に書かれている書物となります。編纂者は誰も公暁に会ったことがありません。編纂者は、文官たちの記録を整理する形で吾妻鏡の編纂を行ったのだと思います。編纂に編纂を重ねている吾妻鏡は、ある意味、鎌倉時代の未完の書であるとも言えます...
2023.07.17 01:16公暁の兄弟たち(一幡・竹御所)源頼家には正室及び側室が複数人いたことが記録されています。公暁には、異母兄、異母弟、異母妹らがおり5人兄弟だったと思います。兄1人、弟2人、妹1人。公暁は次男であったと考えられています。(異説あり)異母兄弟同士で、どの程度の交流があったのか?解りません。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、異母兄の一幡(いちまん)が登場しました。公暁の母は、河内源氏の血を引く武家の娘と考えられています。名は「辻(つじ)殿」本名ではなく、通称名でしょう。もしかしたら?異母弟される1人の母は辻殿の可能性もあり、公暁に実弟がいた可能性もありますが、歴史の記録は定かではありません。異説もあります。決定的な証拠は残念ながら確認できません。今後の研究で何等かが明らかになる日がくること...