2023.09.24 10:56【歴史雑学】佐々木氏の末裔さんと出会う「SNSで出会う」「ネットで出会う」と言うことに難色を示す方も少なくありません。実際に、事件や事故に繋がるケースがあり、ニュースでも取り上げられています。悪いイメージも少なくないと思います。推奨してるわけではないのであしからず。私自身のケースで言えば、SNSやネットで出会った方々に数えきれない程、お会いしています。誤解のない様に先に書きますが、誰でも会うと思うわけではありません。100%歴史繋がりで1番多いのは鎌倉の神社仏閣を巡るツアー開催です。遠方の方にとっては「鎌倉に行く」ことが特別な方もたくさんいらっしゃいます。せっかく来て頂けるのですから効率よく巡り、希望の食事やデザートを食べてほしい。「面白かった!また来たい」と仰っていただけるのが、何より私...
2023.09.24 07:52公暁の記録(吾妻鏡)- No 11-※1219年1月27日の公暁の命をかけたの日の前後の吾妻鏡の記述の紹介です。公暁の直接の記録ではありませんが、クライマックスに向けて触れておきたいと思います。不運、不吉な出来事が連続します。信じるか信じないかは皆様次第です。1219年1月の記述【吾妻鏡】1219年1月7日大江広元の屋敷焼失。火災で40件以上が焼失の被害があった。【吾妻鏡】1219年1月15日北条時房室(足立遠元の娘)宅他、10軒が焼失【吾妻鏡】1219年1月25日源頼茂が鶴岡八幡宮で参籠。前夜、お経をあげている時一瞬のうたた寝。その時に夢で、1羽のハトが現れた。子供が1人おり、少し経った頃、子供は杖(棒)を取り出し、ハトを叩き殺してしまいました。それから子供は自分の狩衣の裾を叩いてきま...
2023.09.18 00:45公暁の記録(吾妻鏡)- No 10-【吾妻鏡】1218年12月5日鶴岡八幡宮別当は、八幡宮寺に参籠したまま退出しない。複数の祈祷を行っている。まだ髪を剃髪せず怪しまれている。白河左衛門尉義典を伊勢太神官に奉弊(ほうへい)の為に出発させた。そのほかにも諸社に複数の使いを出していると、本日御所で発表されたらしい。前回の公暁の記録(吾妻鏡)-No9-にて、公暁は宿願の為に鶴岡八幡宮寺に籠った記録を紹介しました。これが1217年10月。今回の記録は1218年12月です。約1年2カ月。公暁はずっと鶴岡八幡宮寺に籠っていたことになります。公暁は「一千日八幡宮寺に参籠する」と宣言していることから長期間の参籠は計画的だったと想像できます。1年2カ月が宣言通りの期間なのか?それよりも長いのか?解りませんが...
2023.09.09 06:01歴史雑学【6】❝御供養❞と言う考え方歴史好きな方であれば「この方が好き」「この武将が好き」と言う「推し」の方も多いと思います。この「推し」と言うのは1980年代に生まれた日本語の俗語。としてWikipediaに書かれています。「推し活(推しを広める活動)」や「推ししか勝たん(推してる人が最高です)」と言う言葉は2000年代になってから広まったそうです。俗語とは言え、新しい言葉が生まれて普及するというのは面白い社会現象だな。と非常に興味深いです。ひと昔前であれば歴史好き=歴史オタクでした。某ゲームのキッカケにて、女性の武将ファンが活動を活発化させたことで「歴女」と言う言葉が普及しました。個人的に、この「歴女」と言う言葉には戸惑いがありました。「鎌倉時代が好きです」と答えると「歴女なんですね...
2023.09.09 04:39公暁の記録(吾妻鏡)- No 9-【吾妻鏡】1217年10月11日阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮寺別当に就任した後、初めて、神拝(参拝)された。また、宿願(しゅくがん)がある為、これ以降一千日間、八幡宮寺に参籠(さんろう)するとのこと。前回の記録では同年6月20日に鶴岡八幡宮寺の別当に就任した。と記録されています。それから約4カ月。10月になり初めての参拝・・・・。当時の神職や僧侶の決まりは解らないが、ずいぶんと間が空いている様に感じます。当時は「神託」の様なお告げなどで行事などを決めることも珍しくありませんが10月11日に参拝に至ったまでの経緯については記録が残されておりません。公暁が何を思って八幡宮寺に籠ろうとしたのでしょうか?私は古文書や古い記録(もちろん、吾妻鏡も含めて)気を付けている...
2023.09.02 06:31歴史雑学【5】誰の目線で歴史を見るか?「好きな武将は誰ですか?」「何時代が好きですか」と言う質問は、歴史好きな方であれば、必ず問われる質問であり、誰かに質問したことがあるのではないでしょうか。私はいつも答えに迷ってしまいます。「河内源氏の活躍が好きです」と言うと幅が広すぎます。この回答では「足利尊氏」も「今川義元」も「武田信玄」も含まれることになります。※もちろん、後世の彼らの活躍も好きですが。極端な例えではありますが「どこに住んでいるのですか?」と聞かれて「日本です」と答えるのと同じ感じになってしまいます。「源頼朝が好きです」と言いたいところですが、(強いて)1番誰に1番興味があるか?と聞かれるならば、源義朝です。源氏病末期とも言うべき私の中の鎌倉史は、源義朝なくして成り立たないであろう...
2023.09.02 04:49公暁の記録(吾妻鏡)- No 8-【吾妻鏡】1217年6月20日阿闍梨公暁が園城寺より鎌倉に戻る。御台所(北条政子)の意向により鶴岡八幡宮別当に就任することが決まる。この両1年の間は、公胤(こういん)の門弟として学問の為、寺に住んでいた。前回の公暁の記録は1211年、公暁が上京した記録でした。この6年後、公暁が再び鎌倉に戻った記録となっています。6年間、公暁がどんな環境で誰に何を学んでいたのか?は記録にありません。個人的には本当に三井寺(園城寺)にいたのか?も、少々怪しいと思う気持ちもあります。最後にある「寺に住んでいた」と書いてあることも気になります。まるで、それまでは寺には住んでいなかった=三井寺(園城寺)にはいなかった。と解釈できないこともありません。なぜ?わざわざ「両1年、寺に...